人の数だけ、違った歩き方がある。<br>  人の数だけ、歩く理由がある。<br> WALKS - 鳴戸勝紀 編 – 人の数だけ、違った歩き方がある。<br>  人の数だけ、歩く理由がある。<br> WALKS - 鳴戸勝紀 編 –

People 2023.06.23

人の数だけ、違った歩き方がある。
人の数だけ、歩く理由がある。
WALKS - 鳴戸勝紀 編 -

PROFILE

元大関・琴欧洲。本名:安藤カロヤン。1983年2月19日生まれ。ブルガリア出身。現役時代は佐渡ヶ嶽部屋に所属。2mを超える長身と懐の深さを生かした豪快な取り口で相撲ファンの人気を集めた。幕の内優勝1回、三賞受賞5回。2014年春場所(3月場所)で引退後、年寄・琴欧洲を襲名。その後、鳴戸親方となり、2017年4月、鳴戸部屋を創設。2019年4月には、東京スカイツリーの近くに4階建ての部屋を新設し、力士たちの指導をしている。

はじめて立つことを覚えた瞬間。無意識に一歩踏み出す。呼吸するように当たり前に「歩く」ことを覚えたのは、いつのことだっただろう。フィールドを超え、自らの道を切り拓く人たちが「歩く」ことで出逢う感覚や景色を探る本連載。
第10回目にお話を伺うのは、ブルガリア出身の元大関・琴欧洲の鳴戸勝紀さん。異例の早さで関取となり、現在は鳴戸部屋の師匠として相撲の魅力を伝え続ける。しかしはじめから順風満帆な歩みだったわけではない。元々相撲に出会ったのは偶然だったという鳴戸親方も今年40歳を迎えた。「押し相撲」という言葉の如く、これまで歩むこと、前に進むことでしか見えてこなかった景色や新たなる場所にたどり着くことについてお話を伺う。

人の数だけ、違った歩き方がある。<br>  人の数だけ、歩く理由がある。<br> WALKS - 鳴戸勝紀 編 –

歩くことしかできなかった。
相撲との「はじまり」にみた景色

東京スカイツリーと浅草を結ぶ、水辺の商業施設・東京ミズマチ。隅田川を挟み、観光客と地元民が入り混じるこのエリアに、創設から6年目を迎える相撲部屋「鳴戸部屋」はある。好天に恵まれた暖かな午後、鳴戸部屋を拠点に、浅草方面や隅田川沿いの遊歩道を歩き、巡る。

「現役引退後は、ふだんも歩くようになりました。特にコロナ禍以降は増えましたね。外出は散歩だけOKだったので、このエリアはもちろん歩き尽くして、ほかにも東京中をあちこち歩き回りました」

人の数だけ、違った歩き方がある。<br>  人の数だけ、歩く理由がある。<br> WALKS - 鳴戸勝紀 編 –

明確な目的地があるというより、リフレッシュを兼ねて移動を求めることが多い。今でこそ、自転車や車、バイクにボートまで、乗り物を愛用するが、ひたすら歩くことしかできない頃もあった。話は自転車に乗ることも許されなかった相撲との出会いに遡る。

「ブルガリアの体育大学ではレスリング部に所属していました。練習後にその場所を使っていたのが相撲部で、相撲の存在を知ったんです。短時間で勝負がつくし、レスリングとは違い体重制限がない。面白そうだと思って見ていたら、やってみないかとコーチに誘われ、気がついたときにはブルガリアの相撲大会で優勝。次のヨーロッパ大会で日本に来ないかと声がかかっていました。そうして大学の夏休みに体験のつもりで日本に来たら、まさかの入門。話がすれ違っていたのですが俺についてこいと言った先代の佐渡ヶ嶽親方(元横綱・琴櫻)の目を見て、この人にはついて行っても大丈夫だと思いました。言葉は嘘をつけますが、目は嘘をつきませんから」

人の数だけ、違った歩き方がある。<br>  人の数だけ、歩く理由がある。<br> WALKS - 鳴戸勝紀 編 – 人の数だけ、違った歩き方がある。<br>  人の数だけ、歩く理由がある。<br> WALKS - 鳴戸勝紀 編 –

20年前の日本は他の国に比べて先進的な印象があった。しかし期待を胸に日本に渡るも、相撲界はまるで18世紀までタイムスリップしたかのよう。アマチュアでもホテルに泊まり、ドクター、コーチ、栄養士まで付き、データを参考にして結果を出すブルガリアのレスリング界に対し、日本の相撲界は親方が”黒”と言ったら白いものも黒になるような、古い体質の残る社会。過酷な環境だった。

「大部屋にはパイプベッドが10台並び、真夏なのにエアコンもない。周囲のいびきで眠れない。食文化にも馴染めず、自分で買った牛乳を白米にかけて食べていました。『気合だ』と棒で殴られることもありましたね。一番こたえたのは言葉の壁。テレビもラジオも、稽古の内容もわからず辛かった。その頃、自由時間はひとりで外に出て散歩をしていました。いろいろなことを考えながら、歩くしかなかったんです。佐渡ケ嶽部屋があった千葉県松戸市の道をぼーっとしながら歩く時間。当時の自分にとっては、ほんの少しだけリフレッシュできる、ひとりで歩くあのひとときがとても大事だったのだと思います」

人の数だけ、違った歩き方がある。<br>  人の数だけ、歩く理由がある。<br> WALKS - 鳴戸勝紀 編 –

思考を流れさせる。
「もう少し」が連れていく場所

弟子のこと、自分の子どものこと、相撲界のこと。今、考えることが山ほどある。そしてそんな日々だからこそ、思考を先に進めるため、自分と向き合うために歩く時間を取るようにしている。

「あるとき苛立つことがあって、冷静になるために歩きに出たら、知らずに遠く離れた場所に辿り着いていたこともありました。その時はもちろんただ歩きに出ただけでしたから、お金も何も持っていなくて、帰りは歩いてきた道を歩いて戻るしかなかった。その日の歩数は気がつけば4万7千歩。自分でも驚きましたね」

「いくらでも歩けますが、いくらでも走れるわけではありません。走るには歩くよりもさらに自分との『向き合い』が必要になります。たとえば鳴戸部屋のある墨田区向島からお台場まで、行って帰ったら16km。あと少し進めば18km。さらにもう少し進めるかもしれないと思う。その思考と歩みの繰り返しはまさに自分との『向き合い』ですよね。これ以上歩けないと思って座ったらそこで止まってしまう。『もう少し』を積み重ねて、先に進んでいくのだと思います」

人の数だけ、違った歩き方がある。<br>  人の数だけ、歩く理由がある。<br> WALKS - 鳴戸勝紀 編 –

行き先を見据えて進むこと。
支えてくれた人にする恩返し

異例のスピードで関取になった。パスポートも没収され、関取にならないとブルガリアに帰省もできない。理不尽な環境下で、早く番付を上げなければ耐えられないという切迫感も後押しした。できないと思ってしまったらそこで終わってしまう。だからこそできるようになる方法を考えることが大事だと自身の経験から語る。

「一番大事なことは、覚悟を決めて相撲に向き合うこと。ただ向き合うだけではなく、目標をもち、どう達成するのかを考えること。稽古する時間、休む時間、体のケアの時間。他に仕事や勉強をするわけでもないなかで、24時間をどこまで相撲で占められるのか。明日の食事の心配がないからこそいくらでも楽ができますが、失敗を恐れず目標に向けてチャレンジすることが大事だと思っていました」

順調なことばかりではない。相撲には怪我はつきものだというが、鳴戸親方も例に漏れず、なんども怪我をし、立ち止まった。そのたびに次は同じところを怪我をしないようにどう強化できるかを考えて立ち上がる。怪我をして立ち止まるとき、励みになったものがある。

「大関・横綱になると勝ってあたりまえ。調子が良いときはみんな寄ってきますが、怪我をしたときは周りから人がさーっといなくなります。大変なときこそ、そばにいてくれる人や応援してくれる仲間がだれなのかがわかりましたね。先代の佐渡ヶ嶽親方にもそばにいる人を大切にしなさいとよく言われていました。怪我をするたびに、支えてくれた人に恩返しをしたいと思い、立ち上がりました。自分ができる一番のお返しは、土俵の上で元気な姿を見せることだと思っていましたね」

人の数だけ、違った歩き方がある。<br>  人の数だけ、歩く理由がある。<br> WALKS - 鳴戸勝紀 編 –

踏み出せているか?
ぶつかり合う一瞬に問う

「押し相撲」という言葉があるように、相撲は前に向かって相手にぶつかり、押し出す競技でもある。相撲で後ろに下がる人はおらず、前に進むしかない。前に出ること、踏み出すことができる人が強い世界だという。自分の踏み込みが踏み出していると言えるのかを問いながら、稽古に臨む。

「相撲は、『立ち合い』というぶつかり合う瞬間の数秒で勝敗の7〜8割が決まります。数分間、数十分間をかける競技とは違い、考えるより先に動けるかどうかが勝負。何百何千時間の稽古の積み重ね、最初の踏み出し方を日々の稽古で自分の体に覚えさせるのです。精神面でも、体力面でも、自分がもっているものしか出せません。どこまで自分を信じて相撲を取れるかがすべてです」

人の数だけ、違った歩き方がある。<br>  人の数だけ、歩く理由がある。<br> WALKS - 鳴戸勝紀 編 – 人の数だけ、違った歩き方がある。<br>  人の数だけ、歩く理由がある。<br> WALKS - 鳴戸勝紀 編 –

相撲の一歩が意味するもの。
一人ひとりの歩幅にあわせて

相撲は、スポーツである前に日本古来の神事を起源とした祭ごとでもある。土俵も神聖な場所として存在し、依然として礼儀作法などが重視される。勝ち負けだけが相撲ではないと鳴戸親方は言う。

「もちろんトーナメントの勝負もありますが、それ以前に大相撲は場を清め、縁起を担ぎ正々堂々と戦う姿を見せ、みなさんに喜んでもらうものです。東日本大震災の時は被災地を回り、炊き出しなどをしました。お相撲さんが現地に行って、地面を踏む。邪気や悪いものを踏み潰し、みんな元気になるようにという縁担ぎです。お相撲さんは優しくて力持ち。お相撲さんが来れば元気になる。どんなに勝負に強くても、お相撲さんとしての役割を理解し、伝統文化を守る心が必要だと感じています。強くなるには人間としての成長が不可欠なのではないでしょうか」

師匠として相撲の意味や役割も弟子に伝える。大事にしているのは個々人のペースにあわせて伝えること。入門時期が同じでも、中卒の子もいれば、高卒の子もいる。人によって歩幅が違うように、精神年齢も理解力も異なる。

「先代の佐渡ヶ嶽親方は稽古中はもちろん厳しかったのですが、稽古が終わるとどの子のことも気にかけ、それぞれに声をかけてくれる温かみがありました。今は自分も親方として、弟子たちを自分の子どものように思い接しています。大事にしているのは一人ひとりと向き合うこと。みんな一緒ではない。四股を50回踏めばいい人もいれば、300回踏むべき人もいる。同じ映画を、15歳で見た時、25歳で見た時、50歳で見た時、それぞれ気づく場面が違うように、かけるべき言葉も一人ひとり違うのです」

人の数だけ、違った歩き方がある。<br>  人の数だけ、歩く理由がある。<br> WALKS - 鳴戸勝紀 編 –

相撲界をひらいていきたい。
小さな工夫の積み重ねがつくる新たな景色

隅田川にかかるすみだリバーウォーク。観光スポットとして賑わうその橋をスーツ姿で高身長の鳴戸親方が横切ると、多くの人が振り返る。買い物バッグを持った通りすがりのご老人は「わたしあの部屋応援しているのよ」と取材陣に言い残した。異国の地・日本で愛され、応援されてきた琴欧洲は、今鳴戸部屋師匠として部屋まるごと応援されている。

「最初は強制的だったのですが、徐々に相撲を好きになっていった。こんなに面白い世界だからこそ、引退後にどんなお返しができるのだろうと考えた末に、自分の部屋をもつことにしました。200年前に戻ったように思えた相撲の世界を少しでも前に進められるように、現代の世の中のスポーツ界とのギャップをできるだけ埋めていきたいと考えています」

日本の相撲とブルガリアのスポーツ界。どちらも経験しているからこそ生み出せるものがある。そう思いさまざまな工夫を行う。たとえば相撲部屋の開けた場所作り。稽古の様子は窓からだれもが覗けるようになっている。鳴戸親方が現役時に始めたブログは継続中。さらにSNSの発信も怠らない。若い人に興味をもってもらわないと相撲は未来がない。もっと応援したいと思ってもらいたい。

「新しく立ち上げた部屋だからこそ好きなようにできるけれど、結果を出さなかったらそれで終わりです。他の部屋と違うことをやっているからこそ結果を出さないと。結果を出したら前例となり、周りの部屋もうちもやってみようかなと思ってくれるんじゃないかと思っています」

人の数だけ、違った歩き方がある。<br>  人の数だけ、歩く理由がある。<br> WALKS - 鳴戸勝紀 編 –

土俵のうえで迎える節目の年。
変えることができる未来を描く

見据える方向はいつも前。後ろを振り返らないわけではないが、前を向いていたい。過去は変えることはできないが、未来は変えることができるからと語る。

自分の運命を受け入れ、一歩、さらに一歩と前に歩みを進めてきた鳴戸親方。日本にきて、力士になり、自分の部屋をもち、弟子がいる。師となった今も成長し続けるために大事にしていることがある。

「昔はこうだったよねという話ではなく、新しい意見交換をしたいと思っています。部屋の運営とか協会の話、相撲に限らず、いろいろな人に会いあらゆる情報を自分に取り込み活かしたい。スポーツの分野以外でも、通じるものはたくさんあります。満足したらもう下がるしかない。常に新しいことを勉強していきたい」

流れていく情報を得るだけでは思考停止になる。弟子たちにもその危惧を伝える。自分の頭で行き先を決め、自分の足で踏み出していくことでしか、得たい未来は得られない。これまでの40年を振り返ってどうだったかと問うと、鳴戸親方は静かな声でこう答えた。

人の数だけ、違った歩き方がある。<br>  人の数だけ、歩く理由がある。<br> WALKS - 鳴戸勝紀 編 –

「土俵の上が人生そのものです。チャレンジしなかったら経験も積めないこと。辛いことを乗り越えるとさらに強い自分が待っていること。すべて相撲が教えてくれました。でも、これまでの40年を振り返るより、いまは未来を描きたい。どんな未来を描けるか、それは自分次第だから」

「自分を超える弟子を育てたい」。これが今の鳴戸親方の大きな夢だ。簡単ではないその目標を目指し、歩みはまだまだ続く。最後に頭を下げ「鳴戸部屋の応援をよろしくお願いします」と言い残した鳴戸親方は自分を超える次の世代を育て、相撲の世界をよりよくしようと、そして相撲の面白さを多くの人に知ってもらおうと、奮闘し続けている。

人の数だけ、違った歩き方がある。<br>  人の数だけ、歩く理由がある。<br> WALKS - 鳴戸勝紀 編 –

Photo:Hiromitsu
Edit:Moe Nishiyama
Text:Yoko Masuda