人の数だけ、違った歩き方がある。<br>  人の数だけ、歩く理由がある。<br> WALKS - 養老孟司 後編 – 人の数だけ、違った歩き方がある。<br>  人の数だけ、歩く理由がある。<br> WALKS - 養老孟司 後編 –

People 2023.04.28

人の数だけ、違った歩き方がある。
人の数だけ、歩く理由がある。
WALKS - 養老孟司 後編 -

PROFILE

1937年、鎌倉市生まれ。東京大学医学部卒業後、解剖学教室に入る。1989年、『からだの見方』でサントリー学芸賞を受賞。1995年、東京大学医学部教授を退官し、同大学名誉教授に。著書に、『唯脳論』『身体の文学史』『人間科学』『バカの壁』『死の壁』ほか多数。『バカの壁』は460万部を超えるベストセラーとなり、2003年の新語・流行語大賞、毎日出版文化賞特別賞を受賞した。趣味は昆虫採集。現在は、多分野で活躍しつつ、東南アジアを中心に昆虫の世界を探訪する日々を過ごしている。

はじめて立つことを覚えた瞬間。無意識に一歩踏み出す。呼吸するように当たり前に「歩く」ことを覚えたのは、いつのことだっただろう。フィールドを超え、自らの道を切り拓く人たちが「歩く」ことで出逢う感覚や景色を探る本連載。第8回目でお話を伺うのは、医学者、解剖学者でありメタバース推進協議会の代表理事も務める研究者・養老孟司さん。昆虫から人間の視点を通じて生物の身体構造から自然環境、社会現象の分析に至るまで。「歩く」ことから見えてくる生命のルーツから少し先の地球の未来についてお話を伺う。

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蝶の道。
光と影を行き来する空の軌跡

歩くことで生まれる道もあれば、空を飛ぶことで現れる道もある。交通網に電気回線、通学路、航路、登山道に河川……。身の回りを見渡すと、人工的に整備されたものから自然に形作られたものまで、さまざまな用途や機能をもつ道が数多存在する。なかでも自然界には「獣道」と呼ばれる道があるが、虫の世界にも存在するという「道」はどのように生まれるものなのだろう。歩いて向かった先は見渡す限り目の前に立ちはだかるススキ畑の前。「ここです」というひと言を皮切りに、スッとその隙間をわけいるように道なき道を進んでいく養老さんを見失わぬよう、追いかけながらお話を聞いた。

「獣道は自然につくられてしまうものですよね。象の獣道はジャングルの中だとトンネルみたいですが、蝶は『蝶道』といって決まったところを通ります。これは光と影の境目にあることが多いのですが、日向に出たり影に入ったりしながら飛んでいる。理屈はいくらでもつけられますが、日が当たりっぱなしじゃ辛いでしょう。ずっと影でも嫌ですしね。蝶はまったく無意識に光る点を標準にしているんです。葉っぱの反射なんかがひとつのサインになって飛ぶ方向を決めている。だから多分、枝を1本切っても道は変わってしまうんですよ。前の蝶を見て飛んでいるのではないとよくわかるのですが、たくさんの蝶がいるとき蝶の道が筋になって見える。一度ベトナムで山の頂上にいたら、カワカミシロチョウという蝶の群れが下から白い帯のように上がってきました。それで山のてっぺんまで帯が来たら、大群がばらけましたね。つまり山のてっぺんに来ると標識にするものがなくなるので、ばらけて空が暗くなりました。あんな光景を見るのは初めてでしたね」

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「いまだに解明されていないのは蛾の通り道。雌の蛾を1匹置いておくとフェロモンを出すことで雄の蛾が集まってくるのですが、どうしてその位置がわかるのか。ファーブルがすでに計算していますが、おそらく雄は1キロメートル先から飛んでくるので、雌の蛾が1分間にどれくらいの数の分子を放出させるのか、濃さがどれくらいかということも計算できるのですが、とてもそんなものに雄が当たる確率があるとは思えない。具体的に雄の立場で計算してみると、どうしていいかわからなくなるんですね」

「僕はおそらく、雌を中心に放射状にフェロモンの筋が走っているのではないかと考えています。遠くの方にいる蛾の雄はその筋を何回横切ったのかを考える。初めの筋を横切ったらまた次にどこかで筋にぶつかる。そのぶつかる頻度が上がるように動いているはずです。そうしたら近くに行くほど密度が濃くなるでしょう。けれど広い大気中に拡散するなんて無茶なことですから、本来はどうしているのかを考えると、おそらく特定の森の中にいて、そこで出た匂いは狼煙の煙のように筋になって特定の方向に流れる。そういう環境を選んでいるんじゃないかなと思うんですね。虫の見ている世界、生きている範囲はとても狭い範囲なので、その小さな世界のなかにある気象や空気の流れまで含めて適応しているのではないかと思います。そうでなければあんなに小さな虫同士が連れ合いを探し出すなんて困難でしょう」

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世代を超えて引き継がれる。
身体に記憶された土を求めて

物心ついたときから歩くことを覚えるように、環境に適応する方法を教えてくれるのは身の回りの風土や気候といった自然環境そのものなのかもしれない。養老さんが採集を続けるというゾウムシの種類は計り知れないが、虫のなかには身体のなかにその生活環境を記憶するだけではなく、土の記憶を世代を超えて引き継ぎ、「掘り下げる」営みを続けるものが存在する。そこから浮かび上がるのはDNAに刻まれた環境の歴史だ。

「ゾウムシにこれだけの種類がいるのは、ひとりでに分化してしまったんでしょう。こういうふうに暮らしているやつと、ああいうふうに暮らしているやつ、そうではないやつとが生まれてしまった。そのうちあいつらとは付き合えないとなり種類が分かれていく。人間にはわからないほど細かい違いからはっきりとわかる違いまでさまざまありますが、人間側のセンサーが不十分なので、とらえきれないこともたくさんあると思います」

「虫について調べていくと、自ずと虫が生息するための『土』に向き合わざるを得なくなります。千葉県に土地を持つ自分の知り合いが、糞虫の親戚でキノコを食べるムネアカセンチコガネというコガネムシの生態を調べたんです。卵を産むために土を掘るのですが、どこまで掘っているのか穴を調べてみると、地表から80cmも掘りこんでいる。その土地では50cmほど掘ると関東ローム層にぶつかるんですよ。おそらくその虫は関東ローム層ができる前から地面に穴を掘って卵を産んでいたのではないでしょうか。鰻と同じですね。日本の鰻はパラオの近海まで卵を産みに行くでしょう。もともとはそんなに遠くなかったはずなので、プレートが動いたことで故郷が遠くに行ってしまった。その虫も富士山や浅間山が噴火する前の土にどうしても卵を産みたいのかもしれない。融通が効かないから、こういう地面ではないと嫌だという癖なのではないかと思います」

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「土は菌糸の目が張り巡らされて網の目のようになっています。土は土だろうと思っている人もいるかもしれないですが、特定の栄養素を必要とする植物だと、それを供給してくれる菌類、ないし細菌がいないと育ちません。日本以外の国に行くと、植物の育つ黒い土は数センチしかないことがほとんど。熱帯雨林を切ってはいけない理由も、切ると雨季に表土がすべて流れてしまうからです。インドももともとは熱帯雨林だったと思いますが、今ではその成れの果てという感じでラテライト(鉄やアルミニウムの水酸化物を主成分とする土壌。紅土ともよばれる)が露出してほとんどが茶色の土になっている。ラテライトは乾季になるとカチンカチンのレンガのようになり、雨季になるとドロドロになって植物が育つことができないんです。今では日本の多くの場所が車が走るためにという理由で道をコンクリートで覆っていますが、これだけたくさんの車がつくられているのなら、凸凹道に適した車をつくればいいですよね。コンクリートの下に隠れている土の、植物の種が(回復するのに)もつ期間は80年といわれています。それ以上経ってしまうと死んでしまう。虫なんかはいなくなってしまっていますからね」

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脳は森のように。
すべては菌糸を介して繋がっている

異なる必然性に基づいて形作られる多様な生き物たちは、なぜこの広大な自然環境で「調和」することができるのか。個々に生きていくために生み出された形や習性のひとつひとつや秩序に向き合うことは、同時にその棲かである土から木々、その総体として成立する森の複雑性へと目を向けることにつながっていく。

「たとえば本来の森にはいろいろな木があり、新緑の季節も同じ緑のグラデーションにはなりません。木は1本で生えているわけではないということは、僕らが子供の頃は常識でしたけれど、今では杉の木を植えるとき、杉だけ植えるでしょう。あれはおかしいと思いますよ。もっと森をよく見たらこういう木と一緒に植えたら杉がよく育つということがわかるはず。それがアングロサクソンの価値観に由来する競争社会の原理で考えると他の木はない方が栄養分にしても光にしても植えた木に全部ゆくはずだと。けれど、そうはいかないですよ。つまり他の木が一緒に育っている方が森全体の生産量が大きくなるんです」

「木の根は菌糸を介し、菌類を通じて繋がっているとよくわかってきています。とくに大きな木というのは小さな木の面倒を見ているんです。余った栄養を菌糸に渡してほかのところに持っていってもらう。草の葉っぱを虫が食べ始めるとすぐにシグナルが出て、草が毒物を生産し始める。人の持っている神経物質に似たグルタミン酸が発せられると、毒物を作りだします。都心でも森のなかでも際立って大きい木があれば、それはおそらく『マザーツリー』と呼ばれるものです。『マザーツリー』は森の中の大先輩で、光合成も一番有利なわけですが、そこでつくられた養分を地下で菌糸に運んでもらって若木に与える。だからそういう木がそばにあると、間伐になっても周りの木が枯れないんですね。木を1本切ると、その木を切ったと思っているけれど、実はそうではないんです。森の様相を変えている。森は脳に似ていると言われていますけれど、僕は逆だと思っています。脳が森に似てできてきたんじゃないかと。森の方がずっと古いわけですからね。神経細胞を通じて信号を伝えるという構造も、間を伝達しているのは化学物質なんですよ。それを植物は直に出しているわけです」

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歩くことで世界を把握する。
未来に向けて過去を保存する試みとして

生き物の生態系を観察することから身体のメカニズムを読み解いてきた養老さんは今、メタバース推進協議会の代表理事を務める。その視線の先に見据えているのは、時代とともに変化する認知の変化と向き合いながら、年々凄まじいスピードで失われていく森の現在を保存するための活動だ。近い将来「歩く」ことの意味が大きく変化するのではないかと養老さんは考えている。

「これからの時代、おそらく人の記憶の形成のされかたも自ずと変わってくるでしょう。たとえば『情動』がどのようにして生じるのか。僕らの世代まではある種の生理的な運動だから脳を調べれば必ず共通点が出てくるはずだと考えられていたんです。心理学の教科書でも怒っている表情、笑っている表情、典型的な表情を写真から定義するわけです。それをもう少し客観的に見ようとすると、顔の筋肉は30くらいあるのだけれど、どの筋肉がどれくらい緊張しているのかがわかる統計がたくさんあるんですね。そうしたことも含めて怒っているとき脳はどうなっているのかという疑問を立てて客観的な指標を探した人がいて、これを『メタ解析』というのですが、なんと一定の結論が出ないという結論が出たんですね」

「つまり怒っているときの脳の状態は決められないと。人によって違うという結論になったのですが、そんなこと計らなくたってはじめからわかっているよと思うのですが(笑)だから『情動』というものは社会的概念であるということなんですね。みんながあの人は怒っていると認めれば怒っているので、そのときの生理的な状態で決まっているわけではない。アドレナリンの量がここまできたから怒っているということではないんです。心の科学について考えると、理論が複雑になっていった結果、シンプルな結論に辿り着いたのかもれません」

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「メタバースの技術の使われ方には未来方向と過去方向のふたつがあると思っています。ひとつは未来に向けたもので、ゲームなどのためにつくられる世界。もうひとつは現状を過去として残していくという試みです。テレビや映画などのメディアでも残せますが、鑑賞する対象としてではなく、本人が中に入れる具体的な状態として残すということ。具体的には、先日ラオスの森を訪れたのですが、実際に森そのものを保存しようとしても利害関係が発生する上、資金も必要になるのでなかなか進みません。そこでどうすれば良いかを考えたとき、一番手軽に現在の状態を残す方法としてメタバースの技術があり、『歩く』ということのとらえ方も大きく変わってくると思いますね」

手足のさきから頭のてっぺんまで、全身に意識を傾ける。いまここで踏み締める地面、目の前に続くこの道は、どこからはじまり、どこまで続いていくのだろうか。肌の上を撫でる風の感触、樹々からこぼれる木漏れ日のリズム、雨上がりのしっとりとした土の香りを吸収しながら、憶えた経験が土地の記憶となって無意識に身体に刻み込まれる。足元に積層する、決して体験し得ない時間の重なりとこれから先へと更新される可能性の上に、私たちは立っている。変容を繰り返す環境は、二度と同じ風景をあらわすことはないかもしれない。ルーツを知り、この先の世界にどのように適応することができるのか。日々歩くことから世界が広がりゆくように、養老さんの歩みは続いていく。

Photo:Akari Yagura
Edit+Text:Moe Nishiyama