人の数だけ、違った歩き方がある。<br>  人の数だけ、歩く理由がある。<br> WALKS - 養老孟司 前編 – 人の数だけ、違った歩き方がある。<br>  人の数だけ、歩く理由がある。<br> WALKS - 養老孟司 前編 –

People 2023.04.21

人の数だけ、違った歩き方がある。
人の数だけ、歩く理由がある。
WALKS - 養老孟司 前編 -

PROFILE

1937年、鎌倉市生まれ。東京大学医学部卒業後、解剖学教室に入る。1989年、『からだの見方』でサントリー学芸賞を受賞。1995年、東京大学医学部教授を退官し、同大学名誉教授に。著書に、『唯脳論』『身体の文学史』『人間科学』『バカの壁』『死の壁』ほか多数。『バカの壁』は460万部を超えるベストセラーとなり、2003年の新語・流行語大賞、毎日出版文化賞特別賞を受賞した。趣味は昆虫採集。現在は、多分野で活躍しつつ、東南アジアを中心に昆虫の世界を探訪する日々を過ごしている。

はじめて立つことを覚えた瞬間。無意識に一歩踏み出す。呼吸するように当たり前に「歩く」ことを覚えたのは、いつのことだっただろう。フィールドを超え、自らの道を切り拓く人たちが「歩く」ことで出逢う感覚や景色を探る本連載。第8回目でお話を伺うのは、医学者、解剖学者でありメタバース推進協議会の代表理事も務める研究者・養老孟司さん。昆虫から人間の視点を通じて生物の身体構造から自然環境、社会現象の分析に至るまで。「歩く」ことから見えてくる生命のルーツから少し先の地球の未来についてお話を伺う。

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生き物は常に“動いて”いる。
歩きながら考えることのすゝめ

前に進む、立ち止まる、後退りする、つまずく、早歩きする……。ひとえに「歩く」といっても、その一連の動きのなかには多様な動作のバリエーションが存在する。そして一人ひとりの身体の個体差や感覚の違いにより、そのテンポや歩幅、選ぶ経路も異なることに加え、環境が変わればさらに歩き方は分岐していく。日頃多様な生き物の視点から世界を観察する養老孟司さんにとって、「歩く」という行為はどのような意味をもつのだろう。

「『歩く』ことは『動く』ことと言い換えることができます。そもそも現代社会ではじっとしていることが通常の生き方であるという前提ができている気がしますが、他の生き物なんかをみていても、本来はうろうろ歩いているのが生き物の正常な状態。『動物』というくらいですから人も本来はそうだったはずなのですが、動いていることがあたりまえであるという常識がいつからかなくなってしまったんですよね」

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「僕の場合はふだん目的地は決めず、歩こうということだけを決めて歩いています。目的地より道中が気になりますから。植物の名前がわからないときは『picture this』というアプリで調べるのですが、びっくりしたのは家の近所にいかに外来植物が多いかということ。秋になるとアザミの蕾の中にゾウムシの幼虫がよく入っているのですが、虫が入っていると蕾が枯れているからすぐわかるんですね。けれど最近は枯れた蕾を見てみても1匹も入っていない。おかしいなと思ってアプリで植物の名前を見てみたら『アメリカオニアザミ』と出てきました。要するに外来種になってしまったから、日本古来の虫が入らないんだなと。人や荷物やなにかに運ばれてひとりでに入ってきたんでしょう。昨今はものの移動が激しいですから、気が付かないうちに外来種が運ばれることも多いと思います」

「『歩く』ということは、すなわち向こうから障害物が現れたり環境や状況の急激な変化にも対応しなくてはいけないという状況です。自分の他に歩いている人がいると、追い抜いた追い抜かないということが気になってしまいますし、向こうから誰かが来るか来ないかということも常に意識しています。脳へと入る刺激も自ずと多くなるので、無意識の内に絶えず計算を続けることになります。そうしたすでにある程度脳が動いている状態で物事を考えると、なにもストレスがない状況よりも思考しやすくなるのではないでしょうか。勉強というと部屋の机の前でじっとしてなにかしているイメージがありますけれど、そんなことしてたら気が散ってなにもできない。あちこちをぶらぶら歩くことや散歩を意味する『逍遥(しょうよう)』という言葉を冠した『逍遥学派』があるように、古代ギリシアの哲学者たちも歩いて考えていたのでしょう」

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二足歩行、四足歩行、六足歩行……
ロコモーションと手足の関係

養老さんがとらえるのは人の視点に止まらない。虫の眼、鳥の眼、魚の眼、蛙の眼、アバターの眼……。その視点をいつの時代、どのスケールに置くのかによって、あたりまえのように歩くことで目にしている光景は様相を変えてしまう。たとえば人が二足歩行であるのに対し、爬虫類や哺乳類の多くが四足歩行を基本とし、昆虫は六足歩行、そのほかの虫には多足歩行のものも存在するが、そもそも足の数は歩くこととどのように関係し、どう影響を与えているのか。そしてなぜ、そうした形に分岐・変容していったのだろう。

「春に蟻をみていると、よく草の種を運んでいますよ。前に家の土壁を登っていくのを見つけて、あ、屋根のほうに巣を作ったなと思って登って行くのをみていたんです。そうしてずっとみていたら、一番上の方まで登りきるかなと思いきや、今度は下に降りてきた。春の運動ですね。よく蟻は巣にものを運んでいると言われるから、疑ってみているとね、どうも違う気もするんですよ」

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「世界に適応するように移動する機能のことを、場所(ロケーション)と動き(モーション)から『ロコモーション』という言葉であらわすのですが、生物の手足は元々空間内を『移動する』という機能を担ってきました。そのなかで昆虫は足を減らしていったのでしょう。元はもっと多かったのだと思います。つまり足が多いと、体をつくる上でより多くの設備投資をしないといけません。そこでできるだけ節約していった結果、6本で止まったということなのではないかと」

「おそらく昆虫の場合は体の主要な部分を3つに割ったということから3対の足という形が必然的に出てきたのではないかと思います。ヤスデみたいにひとつの関節に2対の足を持っているグループもありますし蜘蛛は頭胸部と腹部で節がふたつなので4本でもよかったはずですけれど、6本の足を持つということが一番自然な形なのでしょうね。一方、人間は位置の移動を『足』のみに預けてしまったんですね。移動するためのものであるという制限から解放されたことで『手』が空いた。そこから『手』は多様な機能を果たしすようになったといえます」

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余白があるから変容できる。
進化の過程に目を向ける

生物の「形」に目を向けると、多様な種族に分岐するなかで、共通する点を見出すことができる。そして身体の構造を読み解くことは、さまざまな環境変化の歴史、あるいは進化の系譜を読み取る上で重要な手がかりになる。しかし、その「形」の変化はひとえに進化や退化といった言葉だけで言い表すことは難しいのかもしれない。

「生物は単細胞から発生し、身体の各部分を分化させていきますが、そのときに順序があるんです。なので機能として不要だからといってそのパーツを消してしまうことはしません。わかりやすい例を挙げると、『鼻涙管(びるいかん)』という器官は胎児の初期に原始的な鼻と目の間に溝ができるんですけれど、それが元となり発生の初期にできてくるので、残りの部分をつくっていくときに邪魔をするか助けるか何らかの役割を果たすようになります。その形だけで見ていると、涙が鼻に抜けるというわけのわからぬことをしている。けれどこれを外してしまうと基本的な顔の造りが根本的に狂ってしまうんですね。恐竜時代の化石にも残っているティラノサウルスの手があれだけ小さなものとして残り続けたのも、おそらく同じような理由でしょう」

「人間と同じように手が空いた哺乳類にカンガルーがいます。小さいときの手を見るとおもしろいのですが、足はまだうちわ状態のとき、手はつめも生えていて指ができているんですよ。その手で這ってお母さんのお腹の袋に入って乳首に吸い付く。有袋類(ゆうたいるい)の胎児というのは非常に早くから袋の中に入るためのロコモーションに手を使うので、その後人間の手のように手が発達しない。要するに早く特殊化すると使い道が限られてしまうんですね。発生から分化していく過程で、その形が特別な用途に使わなければ使わないほど、いろいろなことに使える可能性が残るわけです」

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三感と二感と脳の関係。
言語と記憶の生成について

特殊でないからこそ変容できる余白が残されている身体は、生まれ落ちた環境や、個々人によっても変化し得るのかもしれない。とりわけ「感覚器官」に目を向けると、生きる環境によって視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚といた五感の使われ方も大きく異なるようにも感じる。たとえば歩いているとき、ふと香った花の香りから、急に情景が浮かびタイムスリップする感覚があるのはなぜなのだろう。身体感覚と記憶はどのように関係しているのだろうか。

「僕はいつも三感と二感というのですが、文字を読むのは目、言葉を聞くのは耳、点字に触覚を使いますよね。視覚、聴覚、触覚から入る情報は客観的・論理的な思考を司どるコンピューター、大脳皮質に上がってくるので、言語をつくり得る感覚だとされています。一方、嗅覚や味覚の刺激は50%は大脳辺縁系という感情と繋がりのある場所に入り、残りの50%だけが大脳皮質に上がってくる。紅茶に浸したマドレーヌから幼少期の記憶が蘇るというマルセルプルーストの『失われた時を求めて』という小説がまさしくそうですが、嗅覚や味覚は言葉はつくれない代わりに情動・感情と結びつき、記憶は理屈よりも感情と連動しているので、強く記憶されることになります」

「言葉には視覚言語と音声言語の二つがありますが、日本語にオノマトペがたくさんあるのは、音声言語と視覚言語の共通性を高めていくというよりも、それぞれの感覚、聴覚や視覚の特徴を残しているということなのでしょう。一方で文字情報からそのときの記憶が目に浮かぶ、言葉から情動を辿れるというのは特殊な能力だと思います。情動というのはその時々のものであり具体性を持っていますから、言葉にしてしまうと怒っている、喜んでいるというつまらない表現になりがちです。どんなふうにどれくらい喜んでいるか、言葉であらわすことができるのは相当言葉が達者でないといけません。だからこそ詩や文学というものが成立するのではないでしょうか」

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虫はどのように“記憶”している?
錯視図形の如く世界を認知する

一方で、感情・情動と結びついていない記憶はどのように形成されるのだろうか。たとえば今ここを歩いているという現在に対して通り過ぎた場所は過去のものになっていく。行き帰りということばがあるように、今まで歩いてきた道を、わたしたちはどのような感覚を用いて把握し、記憶しているのだろうか。そして身体のスケールを変えて世界に向き合ったとき、虫はどのようにこの世界を把握、記憶しているのだろう。

「空間認知の方法には地べたに張り付いている目線と上空から俯瞰する神様目線の二つがあります。サッカーなどのスポーツもそうだと思うのですが、ボールをいつも見ていたらゲームができないですよね。敵味方がどこにいて、ボールの位置がどこか。そうした上空から俯瞰した風景が絶えず今自分の目の前にある風景に重なって見えていなければいけない。幽体離脱は直に見ている光景ではなく上から見ている光景だけが残っている状態のことですが、人は日頃からそうした両方の視点でものを見ているのだと思います」

「ちなみに蟻は仲間がマーキングした道を辿って巣に帰ると言われていますけれど、本当かなと疑っているんです。だって大変な距離を歩いているわけで、その道中全部にマークするたびにマーキングするための物質も減っていくわけでしょう。歩いていく景色を適当にパチっとスナップショットのように撮っているという説もありますが、もしそうだとしたら瞬間記憶のような形で帰りはそのスナップショットに合致する景色を探しながら歩くので、来た道とまったく同じ道を戻るということになります」

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「それから人間の視点から蝉をとらえると、あんなに大きな声で鳴いていたら他の天敵から狙われてしまうと考えますよね。よく雄の蝉が鳴いて雌の蝉を呼んでいるといいますが、蝉は耳がないからあんなに大きな声で鳴くんです。まだ詳しいことは解明されていないのですが、音をキャッチする際に、おそらく身体の一部が振動する。基本的に生物は自分の棲む環境を基準に身体を適応させているので、全体の環境は無視されます。だから各々の生活環境では辻褄が合っているんだけれど、彼らの描く世界はエッシャーの絵のようになってしまう。全体で見るとこうなるはずなのになんだかおかしいなという状況に見えるんですよね」

エッシャーの絵のように。異なるスケールに応じて成立する秩序の集合体から環境が形成されていると考えると、それらが直接意識されないままに相互に関係しあっていることが不思議に思えてくる。個々に生きていくために生み出された形の必然性が、意図されずに循環する景色の一部を成している。そのように考えていくと、個々の生物に目を向けることは、自然環境そのものの成り立ちへと目を向けることと同義なのかもしれない。後編は生き物の生態の研究からメタバースも含めたリアル・バーチャルの環境へと視野を広げ、歩くことについてお話を伺います。

Photo:Akari Yagura
Edit+Text:Moe Nishiyama