人の数だけ、違った歩き方がある。人の数だけ、歩く理由がある。WALKS – 森山未來編 –

People 2021.09.21

人の数だけ、違った歩き方がある。
人の数だけ、歩く理由がある。
WALKS -森山未來編-

PROFILE

兵庫県出身。5歳から様々なジャンルのダンスを学び、15歳で本格的に舞台デビュー。2013年には文化庁文化交流使として、イスラエルのテルアビブに1年間滞在、インバル・ピント&アヴシャロム・ポラック ダンスカンパニーを拠点にヨーロッパ諸国にて活動。 ダンス、演劇、映像など、カテゴライズに縛られない表現者として活躍。待機作には、「ボクたちはみんな大人になれなかった」(11/5劇場公開&Netflix同時配信予定)、劇場アニメーション「犬王」(2022年公開予定)。ポスト舞踏派。miraimoriyama.com

はじめて立つことを覚えた瞬間。無意識に一歩踏み出す。呼吸するように当たり前に「歩く」ことを覚えたのは、いつのことだっただろう。持ち上げた片足を、かかとから着地させ、つま先で地面を掴む。一歩、また一歩と右足から左足へ重心を移動させながら前に進み、時に立ち止まる。 音楽家、建築家、詩人、研究者、料理家、写真家、映画監督、アスリート……あらゆるフィールドを超え、「歩く」ことから出逢う感覚を探る本連載。第1回目は感覚を頼りに世界を眺めるための考察や、土地のリサーチから身体表現を生み出すなど多様な方法で表現に向き合う表現者・森山未來さんに話を伺う。

向かった先は森山さんの生まれ故郷でもあり、アシックス創業の地でもある兵庫県神戸市・長田区。“長くひらけた田地”が続いていたことから付けられたという「長田」の字の如く、北に高取山、南に海、新湊川、苅藻川と豊かな水源に囲まれているのが特徴だ。今回歩くのは、長田区の中でも通称“神戸の奥座敷”と呼ばれる秘境、坂道と階段のまち「丸山」。2022年1月の公演に向け、長田を拠点にコンテンポラリーダンスを通じた表現活動の場をつくるNPO法人DANCE BOXとともに、半日間、創作の一環として行われるリサーチワークに同行させてもらった。

人の数だけ、違った歩き方がある。人の数だけ、歩く理由がある。WALKS – 森山未來編 –

フィジカルに土地を採取する

地図は持たない。出発地は「神戸水天宮」。宮司から地図の代わりに受け取ったのは読み込まれびっしりと付箋の貼られた『神戸長田の歴史』という一冊の本だ。その先は一切歩いたことのない道を行くのだという。住宅が点在する街中、蛇行する坂道のすぐ先に階段が続く。道沿いで急に川が現れ、橋を渡る。目印になりそうな建物がほとんど見当たらず、自分の方向感覚を頼るしかない。行き止まりかもわからない細い裏路地を躊躇うことなく進む。森山さんにとって、“歩く”行為はどんな意味を持つのだろう。

「いわゆる五感でいうと触覚に近いかもしれません。足の裏で土を踏み、身体感覚を刺激しながら風景、空間を体感していく行為が、自分に何を知覚させるのか。そうやって感じることと、情報として知るだけだと受け取るものが全く違います。例えば今回、長田という土地をリサーチをする上で、もちろん地図を見ればこの辺が水天宮、この辺に一里山があって、どこに川が流れているかなどももわかります。しかし、実際にそれらの場所を歩いくことによってでしか、出会えない風景や発見がある。それを知っているからこうやって歩いています。「神戸水天宮」を出発点に選んだ意味としては、今は地質学や歴史学など、いろいろな観点からその土地を掘り下げることができますが、技術が発達する前は、神社そのものが歴史を読み解く資料としての役割を果たしていたかもしれない。神社があるから価値がある場所なのではなくて、何か人が思いを込めていたからこそ、そこに祠が置かれて、神社が置かれたのではないかという考え方です」

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創作するために土地をリサーチをするというプロセスは今年2021年3月、京都・清水寺を舞台に行なった「Re: Incarnation」という作品制作がきっかけだった。東日本大震災10年の節目、平成の大改修を終えた清水寺を舞台にした次世代の祈りの形としての依頼。清水寺という場所で何を踊り表現するのかすぐに思い浮かばなかったという森山さんは、数ヵ月にわたり、京都の街をひたすらに歩き回った。

「京都全体における清水寺の役割みたいなことはなんだろうと考えた結果、京都五山や鴨川、桂川、宇治川、そういった自然に寄り添って京都盆地の人間たちがどのように生きてきたのかということを突き詰めていくようになりました。そのためには自分で五山というものを知らなきゃいけないし、川を知らないといけない。当時の人は歩くことでどんな景色に出逢い、どんな感覚を抱いていたのか。想像しながら自分も歩いて、パフォーマンスを構成する身体や音、そして言葉をフィジカルに土地から採取しました」

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立ち止まることで出逢うビビットな無音の景色

長田・丸山を歩き続けること、1時間。だんだんと、息が上がってくる。速度を緩めることなく、かといって急ぐこともなく淡々と進む。目的地は決めず、ただ一歩踏み出す行為を繰り返す。このプロセスが、創作にとって欠かせないのだそうだ。

「歩くと、リズムが生まれるじゃないですか。歩き続けて疲弊していくと、頭がどんどん働かなくなっていく。そこであるときふっと立ち止まると、無音という大きなアクセントが生まれます。リズムって常に自分の身体の中にぐるぐると存在しているものだから、それが止まった瞬間に目にした景色、耳にした音ってすごくビビットな情報として映るんですよね。例えば、脳内が酸欠状態になっているせいか、景色が歪んで見える。単純に身体が疲れているだけなんですが、そこで出逢って感じた造形が身体を動かさせる。祠や寺社仏閣などで祈りの形が生まれていったルーツにも、もともとそういう感覚を音や身体で具現化した可能性もありますよね。歩いている時に何を感じていたかを事細かに思い出すことはできないんですが。ふっと立ち止まった瞬間、自分の中に生まれている新しい感覚ははっきりと覚えています」

立ち止まる。一見、歩くことと真逆とも取れる行為に若干の後ろめたささえ感じるが、今まで気に留めていなかった身体の中の小さなリズムの連なりが浮き彫りになる。吸う、吸う、吐く、吐く。上下する肩の動き。心臓の鼓動。右足の一歩と左足の一歩の距離。身体が刻む往復運動は時に“リズム”という言葉、“間”という言葉に置き換わり、立ち止まることで、音や言葉、造形へと形を変えていくのかもしれない。

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歩くことで日常を超えていく

進むほどに、歩く人と人の前後が入れ替わり、間隔も変容していく。はじめ森山さんに“合わせよう”としていた筆者自身の歩幅もあっという間に崩れてしまった。しかし各々の刻む、何拍子ともつかない異なる抑揚が、言葉を交わさずともぶつかることもなく、ちょうど良い距離を保ちながら調和しているから不思議だ。

「いわゆる西洋音楽的な3拍子だったり4拍子をリズムと捉えるきらいがありますが、それでいうと尺八なんかの楽譜って“リズム”が一切書かれていない。奏者の間合い、その人のセンスでリズムを作っていきます。歩く行為も同じで、そもそも一人ひとり歩幅も歩き方も違うことが大前提。それを認識することも大事ですよね。かたや、みんなで足並みを揃えなきゃいけないときには、また別のリズム感がある。大人数で田んぼの苗を植えるときに歌う、民謡のような“労働歌”ってあるじゃないですか。あのリズムがないと、日常を超えていけないのかもしれないですね。淡々と続く行為によって精神が押しつぶされてしまわないよう、“詩(うた)”にすること、リズムにすることによって意識や時間を前に進めていくということがあるのかもしれません」

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歩くことで、時間を前に“進めて”いく。それは日々、あらゆる効率が求められる中で時間に“追われる”生活が当たり前になってしまっている私たちにとって、とても新鮮な感覚のように感じられた。表現者である以前にひとりの人として、森山さんが意識していることがある。

「A地点からB地点へ。その間、どれだけの選択肢が僕らの中に備わっているかのかと。例えばロボットがA地点からB地点に向かうとき、何か障害物がひとつでも出てきたらそれだけでB地点には到達できない。だからプログラミングを複雑化していくわけです。そういう話を以前、人工生命を研究をしている池上高志さんから聞いて、もともと人の身体に備わっている解決能力、思考回路の話になり、自分の能力をちゃんと試しておいた方がいいんじゃないかと改めて思うようになりました。ふだん車にも乗ることはありますが、ナビはつけていません。なので、初めての場所へ行く時は大体迷います。自分で道や風景を覚えていかないとその場所に辿り着けないので、多少空間認知の能力は上がっているのかもしれませんね。どういう道程でそこに出逢うのかということの方が重要なんじゃないかなと。どういうふうに生きてきたかが、歩き方には出ると思います。もちろん迷わず行けることには越したことはないんですけれど(笑)」

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どこだって聖地になる

日も沈みかけ、半日間に渡る長田・丸山のリサーチで歩いた距離は10kmを超えていた。しかし歩き終えてみるとたったそれだけかという気にもなってくる。目的地を決めず、ルートも決めず、ただひたすらに「歩く」ことに集中した半日は、起承転結があるわけでもなく、ただ淡々と続いていく、例えるなら川の流れのようでもあったかもしれない。終盤に差し掛かり、「歩く」ことから創作に繋がる気づきはあったのか、あらためて聞いてみる。

「今回のリサーチでは、長田という土地の生の源、苅藻川と桧川(ひかわ)の源流を探していたんです。どちらの川も“長くひらけた田地”であるための命とも言えるような川ですからね。丸山という土地や水天宮に源流のヒントになる場所はないかと。そうして歩いていくと源流は見つからないのに、山のいたるところから水が滲み出している。つまり歩いて歩いてやっとわかったのは、何もなかったということです。源流というわかりやすいポイントはなく、山そのものが水の源だったと彷徨い歩いてようやく見えてきた。そうやって風景への感じ方が変わっていくことが僕にとってはとても重要なことです。土地、大地、自然というものの中で自分たちは生かされている。どういう感覚で長田の人たちは生きていたのかと考えることを通して、こうやって土地にも思いを馳せることができる。こんな風に、見に来てくれるお客さんにも、今までとは視点をちょっとずらすことができるような表現を共有できたら面白いなと思いますね」

人の数だけ、違った歩き方がある。人の数だけ、歩く理由がある。WALKS – 森山未來編 –

A地点からB地点へ。あなたはどの道を選ぶだろうか。さまざまな時間の制約に空間の制約も加わる今日、「歩く」こと、そして踏み出す一歩に意識を向けることは容易ではないと思う。そして「立ち止まること」は、もっと難しいかもしれない。歩く時、そして立ち止まる時、森山さんが忘れられないという言葉を教えてくれた。

「基本的にはどこだって聖地なんだよと。清水寺の副住職さんに言われた言葉が強く印象に残っています。史実や地理学的にどうこうという事実ではなく、そこに自分が何を感じられるか。歩いて感じることで、自分ではない何かしらの存在と触れて関わりながら自分の考えが解け合っていく。歩くことで内の世界から外の世界に開く中で、自分の中だけでは生まれ得ないアイデアが外部から入ってきて、混ざり合った時に“閃き”になるんだろうなと。大事なことは歩くということも含めて、世界を知覚する感度を上げるということです。そうでなければ、新たな身体の動きは生み出せない。面白いけれど勝負所ですね」

NPO法人DANCE BOXとの取り組み「国内ダンス留学@神戸7期」プログラムの一つとして、森山氏が振付家を依頼された。国内ダンス留学とは、文化庁の「次代の文化を創造する新進芸術家育成事業」として、プロのダンサー・振付家を志す者を対象とした8ヶ月間の育成プログラムである。参加者(7期生)は、神戸・新長田の劇場を拠点に、国内外の第一線で活躍する豪華講師陣による座学や実技、公演を通して徹底的にダンスに取り組む。森山氏の振付作品は来年の1月に本番を迎える。

国内ダンス留学@神戸7期
Newcomer/Showcase#3 森山未來振付作品
日程:2022年1月21日(金)、22日(土)
会場:ArtTheater dB KOBE、大正筋商店街
詳細:https://danceryugaku.wixsite.com/main7

Credit
Make:kana hashimoto(SCREEN)
トップス:ANDER BOX TEE
パンツ: Dulcamara ライブラリーオーバーパンツ
衣装:乱痴気(http://www.lantiki.com/)
   Dulcamara(https://www.instagram.com/dulcamara_official/)

協力:NPO法人DANCE BOX
Photo:Makoto Horiuchi
Edit + Text:Moe Nishiyama